2008年4月28日月曜日

日本人はなぜキツネにだまされなくなったのか(内山 節) :読了

日本人はなぜキツネにだまされなくなったのか (講談社現代新書)日本人はなぜキツネにだまされなくなったのか (講談社現代新書)
(2007/11/16)
内山 節

商品詳細を見る

このタイトルで「お、すげ、そーいや最近キツネにだまされねーよなー、なんでだ?」と思って本を手にいる人はいないでしょう。
「さおだけ屋はなぜ潰れないのか?」 なら、そーいや、あれもうかってないじゃん、なんで続けられるの? とかひっかかる部分があると思うんですが、この本はキツネですよ? 誰が買うんでしょうか?(と思ったんですが、私が買ったのは二刷でした。売れてるんでしょうか?)
私がこの本に気をひかれたのは、キツネに騙された人の話を聞いたことがあるからです。まぁ、それも伝聞なので、直接騙されたと言う人に話を聞いたわけではないんですが。
一つ目は私の母で、母は油揚げを食べた後は神社には行くなとかそんな話をたまに聞かせてくれる人でした。そのような話のなかで、神社から出られなくなった人の話しを聞いたことがあるんですね。なんでも、とある人がなかなか帰ってこないので探しにいったら、同じ場所をくるくる回っていたというんです。
本人は同じところでくるくる回っているなんていう意識はなかったらしくて、なぜか神社から出られなくなったと認識していたそうです。
もう一つが妻の祖父の話なのですが、荷物をもって山を歩いていたら急に真っ暗になって、荷物がなくなっていた。キツネに騙されたんだ。という話です。
どちらにしろ自分が騙されたわけでもないので信じるに足る話でもないんですが、それでもそーいった話をする人はいたわけです。
で、この本では1965年を境に騙される人がいなくなった、とそう主張するわけです。
しかし、その前提となる1965年に騙される人がいなくなったという説の根拠がないので、最初からなんだか騙されてるような気分がして仕方ないです。
結局この本を最後まで読んでもキツネに騙されなくなった理由はこれだ! という決定的なものはわからなかったのですが、主な理由は人間と自然の関係が変わってしまった。というところのようです。現代人の視点では見えないものがあると。
この本の中で山上がりという風習が紹介されています。生活が立ち行かなくなった人に開かれている救済措置だそうです。借金などで生活が厳しくなった人が、山上がりを宣言して山で生活するというものらしいです。
その際には、どこの山に住んでもいいし、どこの木を切ってもいいというものです。そして、村の人は山上がりをする人に十分な味噌を持たせてくれるという制度のようです。
昔の人は、味噌持ってく程度で山で自給自足で暮らせたわけです。その時代の人にはキツネに騙される能力があったと。
と、なると味噌だけで山で暮らしてくなんて無理な現代人とは自然に対する視点が違うということかと、そんな風に思いました。
この本で知ったのですが、オオサキという動物をご存知でしょうか? 私は知らなかったのですが家につくという動物でマナーの悪い食事をしているとその食事からミ(栄養)を盗み取っていくという生態を持つらしく動物というか妖怪のようなものでしょうか。
まぁこのマナーに対する行動はシツケのための言い訳のような気もするのですが、もう一つの特徴的な行動がありまして、それが秤が好きでその上に乗るというものです。もちろん姿は見えません。
で、この秤の乗る側が家によって決まっているらしいんですね。
このオオサキは養蚕をする地方に出るらしいのですが、生糸を仲買業者に売る際に秤に乗ると。荷の方にオオサキが乗る家では実際より生糸の目方が重くなるのでその分儲かる。
反対に錘の方にオオサキが乗る家では実際より軽くなるのでその分損をする。
要は、どの家もやってることは同じなのでそんなに売る生糸の量には違いはないはずなのですが、なぜか貧富の差がじわじわとついていくことの説明にオオサキが利用されたようなのです。
なぜかちょっと儲からない家では、秤が正確になるようにオオサキ祓いを行ったそうです。
このなぜかわからない事の説明にオオサキが使われてるのだとしたら、キツネに騙されたというのもそのようなことなのかも知れません。
と、まあ色々考えはしたのですが自然との関わり方の違いがどうこう、というよりはもうちょっと、キツネに騙された、という部分をクローズアップした内容を期待していたのでその点は残念でした。(まぁ筆者の主張したい点はそこではなかったようです)

0 件のコメント:

コメントを投稿